ぐら姐のよくばりイタリア

イタリアにはまってかれこれ25年。イタリア人て面白い、から始まって、イタリアは美味しい、イタリアは美しい、イタリアの田舎が素敵、イタリア美術や建築も面白い…とずぶずぶ深みにはまっている私「ぐら姐」のイタリアなんでもありのブログです。

2021年05月

ベッルーノのチェントロ中のチェントロは、マルティーリ広場の周辺です。
その入り口のあたりにテアトロ・コムナーレがありました。
今シーズンの演目が紹介されています。
まあ、これは今日ではないですか!
バレエ「くるみ割り人形」です。
あと1時間もすれば始まります。
空席ありとも書いてあるし・・・ちょっと考えたのですが、
ベッルーノのまち歩きを楽しむことを優先することにしました。
テアトロには、ライオン像。
ちょっと間抜けな感じですね。
そのすぐ横にこんな門がありました。
今調べたらPORTA DOJONA(ドヨーナ門)というらしいです。
けっこう多くの人たちが通っていて、向こうには何があるのかしら、
と興味をそそられましたが、それは後に取っておくことに。

遠くの山が写るように撮ると、近くの建物が暗くなってしまいますが、
実際にはもうちょっと明るいです。
広場の一角に、小さな小屋がたくさん出展していました。
この時期ならではの子どもたちのためのお楽しみ。
おや、向こうにすごい人だかりが。
大道芸のパフォーマンスをしているのでした。
5つの大陸の役目の5人の一般人にトーチを持たせ、
ヨーロッパがまずアフリカを手中に収めたという話をして、
アフリカ大陸役の人がトーチを大道芸人に投げると
それを受け取ってジャグリングをするというようなやり方でした。
その話がけっこう面白いらしく、
取り囲んでいる人たちには結構受けていました。

こちらには、また別の門が。
広場の噴水。
立派な建物には、金融関係の会社が入っていることが多いようでした。
カフェでご主人様がくつろいでいる間、ちょっと退屈そうなワンコ。
つづく。

昨日のベッルーノの続きです。

ホテルからは、一旦川まで下り、橋を渡って上っていく道でした。
逆光なので、まちの方向は鮮明に写りません。
階段を上って行きました。
素敵な塔に近づいています。
その道から来た方向を振り返った眺め。
早速、その教会に行ってみます。
15世紀に建造されたサント・ステファノ教会です。
素敵な入り口ですね~
慈愛の聖母の彫刻です。
中に入りました。
あるサイトに「ベッルーノ出身のアンドレア・ブルストロン作の十字架上のキリストや
2体の天使の木製彫刻」と書かれていたのですが、
教会内には、説明書きは全くありませんでした。
よく分からないので、適当に撮ってきた写真を載せます。
この2つが、木製彫刻の天使でしょうか?
なかなか素敵な教会でした。
違う入り口から外に出ました。
最初に載せた入り口の前の広場というか庭というか。
ヴェネツィア共和国のあのライオン像がありました。
教会に時間を取ってしまいました。
まち歩きをしましょう。
準備中のバールのボトルのクリスマスツリー
それとは別に、私の好みのエノテカがありました。
裏側は、ちゃんと後姿になっています。
店の前の柱廊の天井には、ボトル栓のコルクに赤いリボンを巻いて下げてあります。
残念!日曜は休みです。がっかり・・・
この辺りからお店やさん通りが始まり、
ウィンドウに可愛いものがたくさん見つかりました。
これは、アレッシが作ったミラノ万博記念のコルク栓抜きらしいです。

まちのチェントロ中のチェントロに近づきました。
それはまた次回。(つづく)

今回、何も考えずに28日からの3泊をパドヴァの宿に予約を入れたのですが、
その後で、27日1泊をどこにしよう?と考えたときに、
他の方のブログを拝見していて、ピアチェンツァに行こうかと思ったのです。
ところがせっかくピアチェンツァに行くなら、ボッビオにも行きたいし、
でもボッビオに行くのは、この時期はバスがなくて多分無理と考え、
別の機会にまとめていくことにしたのです。

改めてパドヴァに向かう途中のまちに1泊をと考えていたのですが、
全然途中ではないのに、突然「そうだ!ベッルーノに行ってみよう!!」と思いついたのです。

ベッルーノには、'95年の夏に
コルティナ・ダンペッツォに行った帰りに1泊したことがあります。
当時は、イタリアにはまりかけた頃で、
まだイタリアのヴァカンス時のお宿事情など全く知らず、
コルティナが夏は混むらしいことだけはどこかで聞いて知っていたので、
そこだけファクスで予約を入れたのですが、
後はどうにかなるだろうと甘く考えていたのです。

ところが途中のまちは、どこも予約で一杯で、
山の変わりやすい天気はしとしとの雨で、
バスでボルツァーノ方向に戻ろうと思ったものの、
時刻表の見方も分からず、バスは全然来なくて、
ええい、もうどこでもいいから大きなまちに出ちゃおう!と思って
BELLUNOなんて知らない行き先のバスが来たので乗ったのでした。
(当時は、ざっくりした計画だけ立てて、宿も現地で決めて泊まる旅をしていたのです)

そうして辿り着いたまちベッルーノは、
日本で言うと松本のような印象がありました。
まちの向こうに美しい山々が見えたのです。
なんとか宿を見つけることができ
(私と友人がチェックインしたら、「満室」の看板を掛けていましたっけ)
ぶらぶら散歩して、とっても美味しいカップッチーノと、
夕飯で入った店でゴルゴンゾーラのニョッキが美味しかった記憶があります。

ガイドブックにも載っていない素敵だったまち・・・
ずっと心の中にあったので、冬の雪景色のベッルーノもいいかも、と
寒いことを覚悟の上で1泊することにしたのでした。

列車に乗り手前の駅で停車したときに撮ったの写真がこれ。
雪景色を覚悟していたのに、なんて良い天気でしょう!
ベッルーノに着いたときにも山が見え、ホームの後方に行って写真を撮りました。
タクシーで宿まで行き、チェックインしました。
チェントロに泊まらなかったのは、ちょっと街からはずれたところに、
ちゃんとしたホテルらしいのに、シングルを安くしているところがあったからです。
バカンスシーズンは、1人で泊まる人が少ないからでしょうか、
たまにこういったことに遭遇します。
四ツ星ホテルのシングルが、なんと39.60€!
宿泊税込みでも41.60€なのです。

そのお宿の私の部屋。
あら、シングルルームではなくツインでした。
一つがセミダブルベッド、一つがシングルベッド。
窓からの景色。
手持ちの食料で腹ごしらえをし、まち散歩に出かけました。
チェントロまでは徒歩10分ほど。
どっちを向いても山が見え、一人できれい~と感動し、
立ち止まっては写真を撮ってまた歩いたのでした。
橋を渡りました。
ひとまず、今日はここまで。続きはまた明日。

ミラノに着いた翌朝。

6時起床、またシャワーを浴びて髪を洗い、7時に朝食。
これがなかなか素敵な品揃えでした。
他に食べていた人がいたし、実はここはホテルのバールでもあって、
反対側のカウンターには外からのお客さんも入っていたので、
場違いな感じがして、もっとアップの写真は撮りませんでした。

上の写真の手前のパンを見ても、
まともな美味しそうなパンやコルネット、焼き菓子などがあるのが分かるでしょう?
その向こうには、ハムやチーズ、リコッタも見えています。
さらにその向こうにサラダの葉っぱ、そして・・・
このホテルにはレストランもあるので、おそらくそちらから来たものだと思うのですが、
加熱した野菜まであったのです!

で、私の1皿目がこれ。
オレンジジュース、カップッチーノ、食事パン、そしてこの大盛りの皿。
もうちょっとよく見えるようにアップで撮りました。
ハム、チーズ、サラミは、よく見かけるものですが、
葉っぱのサラダにトマト、リコッタ、そして
カルチョーフィやマッシュルーム、ペペローネ、茄子などのソテー。
カルチョーフィ(アーティチョーク)大好きなので、ごろんごろんと乗せてきました。
これで結構お腹は膨れましたが、お替りしました。
野菜のソテーが本当に美味しかったのですもの。
甘いコルネットも食べたかったけれど、いくらなんでも食べすぎなので止めました。

地上階の角のところがガラス張りなので、
トラムがゆっくりと通り過ぎて行くのがここでも見られました。
飾りも素敵で食べ終わって部屋に戻るときに、
チャチャッと撮ってみました。
8時過ぎにチェックアウトして中央駅までまた歩きました。
途中で撮った写真。
こんなところにもスケートリンクができていました。
前夜ここを通ったときに、このプレゼントボックスの照明に灯りが点っていました。
最近は、イタリア人も自動券売機で買う人が増えたようで、機械が増えました。
イタロの券売機もグンと増えていました。
そして、ホームに入るのに、改札ならぬゲートができていて、
そこで切符を持っているかチェックするようになっていました。
これは、入ってから振り向いて撮ったものです。
事前にネットで安く購入した切符を、スマートフォンの画面で見せればOKでした。
列車内での検札もそれでOKなので、
旅行は、どんどんペーパーレスになっています。

それだけではありません。
ちょっと前までは、予約確認書をプリントアウトし、
宿までの行き方をプリントアウトし、
チケットをプリントアウトし・・・という具合だったのに、
予約サイトのアプリをスマートフォンにダウンロードすると、
それだけで予約確認書も、宿までの地図も全部見られるのです。
おまけにオフラインでも見られる地図アプリをダウンロードすると、
現在地から目的地までのルート検索までできちゃうし。
あっという間に便利な世の中になってしまって、
昔の旅行を思えば、隔世の思いを強くするオバチャンなのでありました。

ちなみに、電子辞書が出たときに、なんて便利!
伊和・和伊辞典を持ち歩かなくていいんだわ~
なんて思っていましたが、電子辞書が壊れたのを機会に、
スマートフォンにダウンロードする伊和・和伊辞典を購入したので、
(タブレットと共有できるんです~)
ほんとにスマートフォン1つあれば、紙類はいらなくなってしまいました。

ガイドブックも、電子版をダウンロードしていて、
老眼のオバチャンとしては、タブレットの方が見易くて、そちらを愛用しています。
(近頃、ガイドブックはあまり見なくなりましたが。
というか、ガイドブックには載っていないところに行ったり、
ガイドブックではカバーしていない見所をみたりするので
使い物にならないのですが、都市部ではちょっと役立つこともあります)

9:05発のフレッチャビアンカに乗り、ヴェネツィアメストレまで、
レジョナーレに乗り換えて、さらにもう1回コネリアーノで乗り換えて
ベッルーノに向かったのでした。

昨日で’16年夏の旅のことを書き終えましたので、
遡って’15-’16年の冬の旅のことを書きます。
何度か書いていますが、
このブログは、別サイトのサークル掲示板に書いてきたものが消える可能性があったので、
自分自身のブログに書き写しているため、どんどん時間を遡って書いています。
悪しからず。

12月26日羽田を発って、

ミュンヘン経由でマルペンサ空港に19:15に到着しました。
到着前の空からとった夜景
荷物は思ったより早く出てきて、19:40のシャトルバスに乗れました。
ミラノ中央駅には20:30頃到着。
空港からのバスの到着場所が、以前とは駅の逆側に変更されていて、
事前情報で知ってはいたものの違和感を感じました。
すぐ近くのホテルのイルミネーション
中央駅のイルミネーション。
花のような雪の結晶が動き回っています。
いつも駅のすぐ近くに泊まるのですが、
なにせ一人だと宿代はかなり割高になるので、
できるだけ安くてそれなりのお宿を・・・と思って予約を入れたのは、
駅から10分ほど歩いたところにある四ツ星ホテルです。
チェックインして私のシングルの部屋に入りました。
狭いですが、必要なものはちゃんとあるし、落ち着いた感じも悪くありません。
窓からの眺め。
トラムが走っていて、何だか嬉しかったです。
私は鉄ちゃんじゃないなのですけど、ミラノのトラムは大好きなのです。
ぼんやり霞む月。
小腹が空いていましたが、わざわざ外に食べに行くほどでもないので
友人がくれたカップの年越しそばを食べました。
部屋に湯沸しは無かったのですが、持参していたもので。

シャワーを浴び、
トラムのガタゴトーン、ガタゴトーンとゆっくり走っていく音を聞きながら
眠りに就きました。

帰国の日の朝、
私のフライトは、15時過ぎなので、昼までは遊べます。

ホテルの朝食は、相変わらず充実していました。
全部写真を撮ったわけではありません。
オレンジジュースや、甘いもの、
生ハムやサラミ、卵などのほかに、ここは野菜もあるのです。
モッツァレッラのボッコンチーニやリコッタも。
フレッシュフルーツにヨーグルト、
ピスタッキオのコルネット
カルフールのスーパーに行って、イータリーでなくてもよい食材を買い込み、
部屋で最終パッキング。
スーパーの帰り道、ホテルの外観や周辺をちょっと撮りました。
ホテルの入口(左側)と朝食のバール。
Monzaで買い過ぎたビールが1缶余っていたので、
出発前に、無事に旅を終えることを旅の神様に感謝して部屋で1杯。
10時過ぎにチェックアウトして、荷物を預け、
トラム&メトロに乗って(前日からの24時間券がまだ使えるのです!)
ドゥオーモまで行きました。
やっぱりミラノに来たら、ドゥオーモを見ないと落ち着かないのです。
(外観だけですけれど)
それから、ガッレリアにもちょこっと入ってみて。
さらにラ・リナシェンテも覘き、
そろそろ宿に戻る時間です。

ホテルで荷物を引きとり、またトラムに乗って中央駅へ。
そしてシャトルバスでマルペンサへ。
マルペンサに、ナポリ料理の店ロッソ・ポモドーロが入っていました。
店の様子はこんなです。
これにて、私の2016年夏の旅行報告はおしまいです。
ながながとお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。

Monzaからミラノ・ポルタ・ガリバルディ駅に移動し、
1日乗車券を買って、トラムに乗ってホテルまで行きました。
ホテルは前年冬に初めて泊まって、気に入ったホテルです。

昨年はシングルでしたが、
今回はダブルのシングルユースしか開いていなかったので、
その分ちょっと高くなりましたが、キャンセル不可で66€は、
ミラノのこのレベルのホテルにしたら安いと思います。

中央駅からは至近とは言えず、少し歩きますが苦になる距離ではないし、
トラムを使えば、ホテルの目の前まで行けます。
ポルタ・ガリバルディからもトラムで1本、2~3駅なので
イータリーに行くのも、ハイ・テックに行くのも便利です。

今回のダブルのお部屋。
昨年よりも上の階だったので、窓の景色は昨年の方がいい感じでした。
中央駅にできたスーパーマーケットが、
この旅行の到着時に見たときに良くなかったので、
ホテルの近くにないか検索してみたら、ありました!
ちょっと偵察に。
カルフールのちょっとグレードの高い店でした。
週7日、24時間(つまり年中無休)開いている店です。
中をざっと覘いて見たら、品ぞろえも結構よく、
お値段も、駅スーパーよりずっとまとも。
この時はハイ・テックに買い物に行く時だったので、何も買わず、
翌日買い物をすることにしました。

ハイ・テックには1時間以上いたでしょうか。
自分土産、姉たちへの土産などのキッチン・グッズを購入。
それからイータリーに行って、自宅用の食材を購入しました。
近頃は缶入りの3Lだの5LだののEXVオイルを買うのですが、
昨秋スルモーナで見つけた3L箱があるといいなあと思っていたら、
箱ではありませんが、袋入りを見つけました。
3L入りです。
丈夫な袋なので、キャリーケースに入れて預けてのフライトも問題なしでした。

午後7時になりました。
北イタリアの海から離れた都市の8月は、
とりわけフェラゴスト前後の2週間は、地元の人気店はほとんど閉まっているので
ジタバタ動き回らず、そのままイータリーで食べることに。
前菜は、ツナのサラダ。
ツナは、多分缶詰のものではなく、ここで生のマグロを加熱したものと思われます。
けっこう大きな身でした。
味も、脂がのって上々。
葉っぱだけでなく、ジャガイモ・インゲン・オリーブが入っているのもいい感じ。

私と同じような理由でここの店で食べる人がたくさんいるのでしょうね。
店は結構混んでいて、アルバイト(と思われる)店員は気が利かない人が多く、
プリモが来るまですっごく待たされ、催促してやっと来ました。

プリモは、魚とトマトのソースのフジッリ。茄子が添えてありました。
これも魚の出汁がよく出ていてとても美味しかったです。

でも独り飯だからこそ、
できることであれば、気の利くカメリエーレ(ラ)のいる
居心地のよい店で食べたかったなあ、と思いました。
(夏やクリスマスの頃は、それが本当に残念。普段のイタリアでゆっくりしたい…)
そういう訳でヴィーノもグラスで白を2杯でおしまい。

外に出れば、まだ明るく。
トラムに乗ってホテルに戻り、就寝しました。(つづく)

Monzaの大聖堂博物館、いよいよ「鉄の王冠」の話です。

テオドリンダ礼拝道の中央に、小さなやや背の高い台が置かれ、
その中に王冠が吊るされています。
でもそれはニセモノでした。

ガイドのシニョーラが、その台の上のガラスケースの鍵を開け、
スイッチを入れるとニセ王冠が上に上がって行き、
それから厳重に鍵をかけられた金庫を引き出して、鍵を開けると
本物の「鉄の王冠」が出てくるのでした。

つまり2重の鍵+入り口扉鍵という厳重な警備の下に保管されているのです。
ルパン3世あたりが意欲を燃やしそうですね。

「鉄の王冠」と聞くと何の変哲もない鉄の輪っかを思い浮かべてしまう私でした。
イタリア語でも、Corona Ferrea(コローナ・フェッレーア)そのまんまなのです。

でもその「鉄」というのは、
キリストの磔刑の時に使用された鉄の釘なのだそうで、
それを叩き延ばし、輪っかにしたものの周囲に、
金と宝石の飾りの金属板を6つ取り付けたものなのです。
現在は直径15cm 高さが5,5cm 重さが535gだそうです。
写真が取れないので絵葉書を買いました。
その絵葉書を撮ったものです。
王冠の内側の真ん中に細い鉄が見えていますね。

現在は、写真で分かるように飾りの宝飾版が6枚ですが、
実際は8枚あったのだそうです。
この王冠は過去にあちこちに持ち運ばれていて、
1324-45年にはフランスのアヴィニョンにまで運ばれたそうです。
その際に王冠を盗まれ、2枚の金属板が外し盗られ損傷を受けたのだそう。

その後修復されたものの、2枚の装飾板が無い為に
王冠を縮めて、円周を小さくして今に至っているそうです。

この王冠は、聖遺物であるとともに、
代々イタリア国王の戴冠式に用いられたもので、
これにもまた逸話があります。

エルサレムで、キリスト磔刑の際の十字架を発見したのは、
皇帝コスタンティーノ1世の母であるエレナであるとされていて、
その際に十字架に付いていた釘も発見したのだそうです。

6世紀、時の教皇グレゴーリオ1世がロンゴバルドの王妃
テオドリンダに釘の1本を贈り、
それに対して彼女は、595年隣に聖堂を建設したといい、
これが現在の聖堂の前身となります。
(前回の、鳥のエピソードとはちょっと違う?
それとも建てることはこの釘を贈られて決まり、
場所は、鳥との出会いで決めたのでしょうか。)

テオドリンダは贈られた釘を入れた王冠を打ち直し、
装飾の金属板を付け加えて王冠をつくったのだとのこと。

こうしてロンゴバルドの王たちが代々王冠を用い、
カルロ・マーニョ(フランク王国の国王シャルル・マーニュ)が775年に受け継ぎ、
以後19世紀までイタリア王の戴冠に用いられました。

王冠が小さくなった後は頭にかぶる事が出来ないため、
いわゆる形として頭にのせ手で支えたそうで、
ナポレオン・ボナパルトが1805年にミラノで行った戴冠式の時に、
この形で戴冠したのだそうです。

イタリア統一後に国王となったサボイア家は、
この王冠を用いていないとのこと。

おまけの話です。
1993年にこの王冠は科学的検査をされ、その結果、
釘は、1345年に破損箇所が修復された折に使われたと思われる金属で、
鉄ではなく銀であると判定されたそうです…

そんなことは、ドゥオーモ博物館にとっては、どうでもいいのでしょうね。
テオドリンダによって作られたこの美しい小さな王冠は、
このドゥオーモの宝物として、厳重に守られ、
こらからずっと、このように厳かな見せ方をしていくのでしょう。

テオドリンダ礼拝堂を見終えてから、ガイドなしで博物館内を見て、
こちらもけっこう見応えがあったので、
再入場ができることを確認してホテルに戻ってチェックアウト。
荷物を預けて再入場し、じっくりと見ました。

これは、順番が前後しますが、
ホテルにチェックインした時に部屋の机に置かれていた物。
瓶の中身は、キャンディーのように包んであるフルーツゼリーでした。
手紙の宛名にMr.と書かれているのはちょっとちょっとだけど、
こんなちょっとした気遣いは嬉しいです。

さて、駅に着き、パニーノで昼食を済ませ、13:27発の列車に乗りました。
あまり時間がないのに食べたので、最後はぎりぎりで、荷物を持って階段を下り、
ホームへの上るのもエレベーターを待つ時間の余裕もなくて
階段を急いで上っていたら、青年が「手伝いましょう」と声をかけてくれて
荷物を持って駆け上ってくれました。
列車に乗ると間もなくドアが閉まり、何とか間に合いました。
その青年は、同じ列車に乗る人ではなかったのに、
私を手助けしてくれたのでした。
イタリアを旅しているとこういう親切に度々出会い、幸せな思いになります。

日本人にそういう気持ちが無いわけではないのでしょうが、
声をかけることに躊躇してしまうことが多いのかもしれません。

最終地、ミラノへと向かいました。(Monza編これにておしまい)

Monzaのドゥオーモ博物館の集合場所に行きました。
11時のガイド付き鑑賞に参加しました。
(外に出るまでは写真撮影禁止なので、画像無しです)
一番のお宝「鉄の王冠」は、ドゥオーモ内のテオドリンダ礼拝堂にあり、
テオドリンダ礼拝堂の入口に鍵がかかっているので、
これに参加しない限りは見ることができません。

ガイドのシニョーラが、鍵の束を持ってやってきて、
私たちはぞろぞろとついて行きました。
礼拝堂の内部は、暗くて見えず、鉄の扉をシニョーラが開けて、
灯りを点けると見えるのでした。
皆が中に入ると、また施錠。

うわあ… 礼拝堂の壁は、ぐるりとフレスコ画で囲まれています。
テオドリンダの物語が描かれているのです。

さて、そのテオドリンダ(Teodolinda)ですが、
570年ごろ、バイエルン公と、ロンゴバルド王の娘との間に生まれました。
18歳で当時のロンゴバルド王アウターリ(Autari)と婚約したのですが、
アルプスのすぐ向こう側で、
同じくフランク族の攻撃に悩む彼らと手を組むための
政略結婚だったそう。

結婚の前にひそかに将来の花嫁に会いに来たアウターリ一行を、
それと知らずに歓待するテオドリンダが描かれている場面や、
589年5月15日、ヴェローナ近郊のサルディという地で行われた結婚式の場面、
などが描かれていました。

フランク王国とビザンチン帝国にはさまれた北イタリアで、
それまでバラバラになりがちだったロンゴバルディの各地の公爵をまとめ、
王国強化をはかる目的もあって、
この結婚を機に、王の拠点がヴェローナ(Verona)に定められました。
それはロンゴバルド族が支配する北イタリア平野部の中心地にあり、
かつ、バイエルン地方からブレンナー峠を越えてイタリア半島へ入る際の
到着点でもあったためとのこと。

しかしながら、フランク族はアルプスを越えヴェローナに迫り、
王家はパヴァアに逃亡を余議なくされた末、
590年9月5日、王アウターリはパヴィアで客死してしまうのです。

アウターリの死後、「女王」テオドリンダは、
当時のトリノ公であり、亡きアウターリのよき協力者でもあった
アジルルフォを再婚の相手、かつ王位後継者として自ら選びました。

今度の結婚式は590年秋、パヴィアにて行われました。
結婚の儀の前に、同じキリスト教でも、アーリア派の信者であったアジルルフォの、
カトリックへの改宗のための洗礼式も行われたそうです。

翌591年、アジルルフォは正式にロンゴバルド王の称号を得、首都をミラノに移し、
一方でテオドリンダの意向で夏の避暑地としてMonzaが選ばれました。

595年、Monzaがテオドリンダを大切にするきっかけとなる事件が起きました。
ある時オークの木の下で休んでいたテオドリンダのもとに鳩が飛び入り、
"Modo" (ここ)と示すと、テオドリンダは、"Etiam" (はい)と答えたそう。
その2つの単語をつなげると、 "Modoetia"(Monzaの旧名)になるというわけ。
鳩は聖霊で、聖霊がテオドリンダに、ここに聖堂を建てるよう示唆し、
それがそのままMonzaという地名になった、ということだそう。

フランクとビザンツに狙われ、
また、カトリックのローマ人とアーリア派のロンゴバルド族という対立の中で、
公爵たちの反乱も退けたテオドリンダとアジルルフォは、
ロンゴバルド王国を固めていきました。

616年にアジルルフォが亡くなると、
幼くして王位についた息子アダロアルドの摂政として
テオドリンダが引き続き実権を握りました。
この時期、テオドリンダはカトリックへの依存を強めるが、
これはアーリア派の公爵たちの反発を買うことになりました。

王の姉グンデペルガの夫、トリノ公アリオアルドは、
625年に謀反を起こし、アダロアルドは廃位に追い込まれて
26年に短い生涯を終えてしまいました。

翌627年1月22日、息子の後を追うように亡くなったテオドリンダは、
夫アジルルフォと息子アリオアルドのそばに葬られたのだそうです。

その後1308年に彼女の霊廟は整理されて、遺体は新たな棺に納められました。
現在はドォーモの「テオドリンダ礼拝堂」内に安置されています。

と、かなーり長いお話が、周囲のフレスコ画と共に紹介されました。
(これを全部イタリア語で聞いて分かったわけではありません。
帰国後調べてみて、聞いた話と合わせて納得という感じでした。)

絵の写真を撮れなかったので、
博物館入口にあったポスターの写真を載せます。

ロメッロで出会うアジルルフォとテオドリンダの絵の右半分、
アジルルフォの部分。
左半分の、テオドリンダの部分。
そのアップ。
この絵は、15世紀中盤ザヴァッタリ・ファミリーとその工房によって
描かれたものだそうです。

15世紀中盤といえば、
フィレンツェではルネサンス文化が大きく花開き、金塗りの背景から解放され、
聖書の物語でも自然の空間の中に描くのが主流になる頃ですが、
ここではまだ、背景は金で塗り込められています。
でも、花模様になった部分がうっすらと漆喰で盛り上げた上に色が塗られて、
まるで錦織りのような効果を生み出しています。
こういった芸の細かさが、まさに国際ゴシックの特徴の1つなのだそうです。
北イタリアにおける後期ゴシック、または国際ゴシック様式を代表する作品となっているそう。

鉄の王冠については、またいろいろ面白い話があるので、
また次回。

カッロビオーロ教会の続きの写真を少し載せます。
それほど大きな教会ではありませんが、見応えたっぷりで、大満足でした。
教会の前の広場に数本だけ、オリーブの木がありました。
教会のものなのでしょうか。
きっと秋には収穫して、漬けるか搾るかするのでしょうね。

少し行くと、サン・ピエトロ・マルティーレ教会がありました。
開いていたので入ってみることに。
入口のルネッタ。
中では、青年がオルガンの練習をしていました。
遠目から写真を撮ったつもりだったのに、ありません。
簡素な教会でしたが、フレスコ画がある部分もあり、
オルガンの音色を聞きながらの鑑賞は、それなりに楽しめました。
外観は、この角度から見た方が美しいですね。
さて、そろそろドゥオーモ博物館の集合場所へと向かいます。
隣接していた建物を解体すると、繋がっていた部分はこんな風になるのですね。
↑こんな普通の建物に、こんなフレスコ画
さて、いよいよ見学です。(つづく)

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