エレミターニ教会に入りました。
このフレスコ画がとても気に入りました。
中央あたりは、たくさん白いものが貼ってあって、見難いのですが、
オヴェタ-リ礼拝堂にある、マンテーニャのフレスコ画「聖クリストフォロの物語」です。
このエレミターニ教会は、1944年米軍の爆撃により、完全に破壊されたのだそうです。
その時、瓦礫の山と化した教会跡から、このフレスコ画をいつか修復しようと、
できる限りの破片を集めて、箱に詰めて保存しておいたとのこと。
イタリア人って、いい加減のようでも、こういうところってすごいですね。
不幸中の幸いが2つあり、
1つは、戦前の、白黒ではあるものの全体の写真が残っていたこと、
もう1つは、礼拝堂向かって右壁、「聖クリストフォロ物語」のうち1番下の場面は、
当時、修復のためにそこから剥がされ、別の場所に保管されていたため、
爆撃による粉砕を免れたことだそうです。
少しずつ、少しずつパズルのコマを埋めるように「修復」作業を続けてここまでできたと思うと
何も知らずにただ、きれい~、でも傷みが激しいわ・・・なんて思ったことがもったいなく思え、
またパドヴァに行ったら違う気持ちでこの絵を見たいと思います。
以下に部分部分を載せます。
傷んではいるものの部分部分は美しく、この物語の内容を知りたくなり、
ちょっと調べてみました。
クリストフォロスの物語は教派によって微妙に異なっているそうなので、
カトリック教会における伝承を載せます。(Wikipediaより)
<聖クリストフォロ>
「伝承ではクリストフォロスはもともとレプロブスという名前のローマ人だったという。彼はキリスト教に改宗し、イエス・キリストに仕えることを決意したという。別の伝承ではカナン出身でオフェロスという名前だったともいう。彼は隠者のもとを訪れ、イエス・キリストにより親しく仕える方法を問うた。隠者は人々に奉仕することがその道であるといい、流れの急な川を示して、そこで川を渡る人々を助けることを提案した。レプロブスはこれを聞き入れ、川を渡ろうとする人々に無償で尽くし始めた。
ある日、小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言った。彼があまりに小さかったのでお安い御用と引き受けたレプロブスだったが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れんばかりになった。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは丁重にその名前をたずねた。男の子は自らがイエス・キリストであると明かした。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのである。川を渡りきったところでイエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じた。
同時にイエスはレプロブスが持っていた杖を地面に突き刺すように命じた。彼がそうすると杖から枝と葉が生えだし、みるみる巨木となった。後にこの木を見た多くの人々がキリスト教に改宗した。この話は同地の王(伝承によってはデキウス帝)の知るところとなり、クリストフォロスは捕らえられ、拷問を受けたあとで斬首されたという。」
最後の写真の、横たわっている大男の足がクリストフォロなのですね、きっと。
各場面の話を知りたくなってしまいます。
このフレスコ画の作者、マンテーニャと私の出会いは、
マントヴァのドゥカーレ宮殿のフレスコ画です。
すっかり気に入って、大きなポスターを買って帰り、我が家の廊下に飾ってあります。
でも、深く追究しないというか、ちゃんと勉強しない人間なので、
彼について調べてみることなどしませんでした。
ですから、マンテーニャがパドヴァ近郊の生まれで、
このフレスコ画は、かなり初期のものだということを、
このフレスコ画を見た後に調べて知ったのです。
マンテーニャは、パドヴァ近郊の小さな村で1431年に生まれました。
10歳頃に、パドヴァのフランチェスコ・スクアルチョーネの下に「養子」扱いで弟子入りし、
1448年には、独立、ニコッロ・ピッツォロとともに
エレミターニ教会内オヴェターリ礼拝堂のフレスコ画を請け負いました。
ここで一気に評価を得た画家は、1459年、
ヴェローナのサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂の祭壇画を仕上げました。
1460年には、ルドヴィーゴ・ゴンザーガからお抱え画家としてマントヴァへ。
そこで生涯を閉じたそうです。
私は、遡る形でマンテーニャに出会ってきたのだと言うことが分かりました。
つまり、初めにマントヴァの宮廷画の数々を見て、
それからヴェローナ、サンゼーノ・マッジョーレ聖堂の祭壇画、
そしてやっと、この初期の作品に辿り着いたというわけです。
この教会は、思いのほか見応えがあって、これまで入らなかったのが
本当にもったいなかったと思いました。
このフレスコ画がとても気に入りました。
中央あたりは、たくさん白いものが貼ってあって、見難いのですが、
オヴェタ-リ礼拝堂にある、マンテーニャのフレスコ画「聖クリストフォロの物語」です。
このエレミターニ教会は、1944年米軍の爆撃により、完全に破壊されたのだそうです。
その時、瓦礫の山と化した教会跡から、このフレスコ画をいつか修復しようと、
できる限りの破片を集めて、箱に詰めて保存しておいたとのこと。
イタリア人って、いい加減のようでも、こういうところってすごいですね。
不幸中の幸いが2つあり、
1つは、戦前の、白黒ではあるものの全体の写真が残っていたこと、
もう1つは、礼拝堂向かって右壁、「聖クリストフォロ物語」のうち1番下の場面は、
当時、修復のためにそこから剥がされ、別の場所に保管されていたため、
爆撃による粉砕を免れたことだそうです。
少しずつ、少しずつパズルのコマを埋めるように「修復」作業を続けてここまでできたと思うと
何も知らずにただ、きれい~、でも傷みが激しいわ・・・なんて思ったことがもったいなく思え、
またパドヴァに行ったら違う気持ちでこの絵を見たいと思います。
以下に部分部分を載せます。
傷んではいるものの部分部分は美しく、この物語の内容を知りたくなり、
ちょっと調べてみました。
クリストフォロスの物語は教派によって微妙に異なっているそうなので、
カトリック教会における伝承を載せます。(Wikipediaより)
<聖クリストフォロ>
「伝承ではクリストフォロスはもともとレプロブスという名前のローマ人だったという。彼はキリスト教に改宗し、イエス・キリストに仕えることを決意したという。別の伝承ではカナン出身でオフェロスという名前だったともいう。彼は隠者のもとを訪れ、イエス・キリストにより親しく仕える方法を問うた。隠者は人々に奉仕することがその道であるといい、流れの急な川を示して、そこで川を渡る人々を助けることを提案した。レプロブスはこれを聞き入れ、川を渡ろうとする人々に無償で尽くし始めた。
ある日、小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言った。彼があまりに小さかったのでお安い御用と引き受けたレプロブスだったが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れんばかりになった。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは丁重にその名前をたずねた。男の子は自らがイエス・キリストであると明かした。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのである。川を渡りきったところでイエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じた。
同時にイエスはレプロブスが持っていた杖を地面に突き刺すように命じた。彼がそうすると杖から枝と葉が生えだし、みるみる巨木となった。後にこの木を見た多くの人々がキリスト教に改宗した。この話は同地の王(伝承によってはデキウス帝)の知るところとなり、クリストフォロスは捕らえられ、拷問を受けたあとで斬首されたという。」
最後の写真の、横たわっている大男の足がクリストフォロなのですね、きっと。
各場面の話を知りたくなってしまいます。
このフレスコ画の作者、マンテーニャと私の出会いは、
マントヴァのドゥカーレ宮殿のフレスコ画です。
すっかり気に入って、大きなポスターを買って帰り、我が家の廊下に飾ってあります。
でも、深く追究しないというか、ちゃんと勉強しない人間なので、
彼について調べてみることなどしませんでした。
ですから、マンテーニャがパドヴァ近郊の生まれで、
このフレスコ画は、かなり初期のものだということを、
このフレスコ画を見た後に調べて知ったのです。
マンテーニャは、パドヴァ近郊の小さな村で1431年に生まれました。
10歳頃に、パドヴァのフランチェスコ・スクアルチョーネの下に「養子」扱いで弟子入りし、
1448年には、独立、ニコッロ・ピッツォロとともに
エレミターニ教会内オヴェターリ礼拝堂のフレスコ画を請け負いました。
ここで一気に評価を得た画家は、1459年、
ヴェローナのサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂の祭壇画を仕上げました。
1460年には、ルドヴィーゴ・ゴンザーガからお抱え画家としてマントヴァへ。
そこで生涯を閉じたそうです。
私は、遡る形でマンテーニャに出会ってきたのだと言うことが分かりました。
つまり、初めにマントヴァの宮廷画の数々を見て、
それからヴェローナ、サンゼーノ・マッジョーレ聖堂の祭壇画、
そしてやっと、この初期の作品に辿り着いたというわけです。
この教会は、思いのほか見応えがあって、これまで入らなかったのが
本当にもったいなかったと思いました。